LOGIN真帆の声が、喉の奥で押し潰された。 真帆は一度だって、家庭を捨てるつもりなどなかった。残業が増えていたのも、家族との時間を確保するために効率化を図り、新しいプロジェクトを軌道に乗せようと必死に働いていたからだ。 もし沙耶の話が本当なら、悠人は沙耶に対して、真帆を「娘を置いて出ていく人」のように語っていたことになる。 一方、真帆には「沙耶は頭がおかしくなって執着してくる危険な女」だと説明していた。少なくとも、二人が聞かされていた話は、同時には成立しなかった。「悠人は……そんなことを言っていたの……?」「ええ……。参観日のこともそうです。『真帆も分かってくれているから、外で待っていれば七海に会える』って……。だから、私はここに来たんです」 沙耶は両手で顔を覆い、激しくしゃくりあげた。 真帆はベンチに座ったまま動けなくなっていた。 目の前の女を、ただ「我が家を奪いにきた侵入者」とだけ決めつけることが、真帆にはできなくなった。 沙耶自身もまた、悠人から真帆とは違う説明を聞かされ、それを信じて動いていた可能性がある。 不倫。乗っ取り。復讐。 そうした分かりやすい悪意だけでは説明できない何かが、二人の間に横たわり始めていた。 その中心にいるのが悠人なのかもしれない。疑っては打ち消してきた顔を、真帆はもう頭から追い払えなかった。◇「悠人さんは……」 真帆は声を絞り出した。「私とあなたに、まったく違う話をしていたのね……」「そう……みたいです……」 沙耶は涙を拭い、真っ赤になった目で真帆を見つめ返した。「私……あなたから『二度と近づくな』ってメッセージが届いた時、本当に自分が罪深いことをしているんだと責めました。でも……悠人さんは『真帆は感情的になっているだけだ。君が
公園の脇にある古い木製のベンチに、二人は距離を置いて腰掛けた。 七海が少し離れた遊具の周りを歩いている姿が、生け垣の隙間から見えている。 真帆は膝の上で両手を固く組み、冷え切った指先同士を押し付け合った。「私は、九年前の事故のことも調べました」 真帆が切り出すと、沙耶の身体が目に見えて強張った。カーディガンの生地越しに、彼女の背筋がピンと伸びるのが分かる。「莉央さんが……七歳で亡くなったことも知っています。悠人から聞きました」「悠人さんから……なんて?」「沙耶さんの運転ミスで事故が起きたと」 真帆は悠人の言葉をそのまま口にした。「あなたが車内で取り乱して急ハンドルを切った。事故のあと精神的に不安定になって悠人に執着したから、離婚せざるを得なかった。……そして、七海に会わせているのは、立ち直れないあなたを哀れんだ悠人の善意だと」 沙耶は息を呑んだ。 その顔から、急速に血の気が引いていく。白い肌がさらに青白くなり、薄い唇がわなないていた。「……善意……?」 沙耶の声は、掠れ声となって漏れた。「あの人が……そう言ったんですか? 私が執着して、あの人が善意で会わせてくれていると……?」「ええ。そう言って私をなだめようとしました」「違う……違います!」 沙耶が激しく頭を振った。膝の上に置いた小箱のリボンが、彼女の震えに合わせて揺れる。「最初に連絡したのは、私じゃありません! 三年前、最初に七海ちゃんの写真を送ってきたのは悠人さんです!『莉央に似ている子がいる』って……『一度会ってみないか』って、何度も何度も連絡をしてきたのはあの人です!」 沙耶の目から、溢れ出た涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。「私は怖かった……莉央を死なせた私が、新しいお子さんに近づくなんていけ
校庭の隅に置かれた朝顔の鉢植えから、濡れた土とプラスチックの匂いが風に乗って漂っていた。 放課後の下校時刻を過ぎ、学校の敷地内から人影がまばらになっていく。保護者たちの話し声も遠ざかり、時折通り過ぎる車の水跳ねの音だけが、濡れた舗装路に低く響いていた。「七海、あそこのベンチで待っててくれる? ママ、あのおばさんと少しだけお仕事のお話があるから」 校門を出てすぐの場所にある、小さな街区公園。真帆は七海の目線に合わせてしゃがみ込み、手に持っていた黄色い傘の柄を握らせた。 七海は不安そうに大きな目をしばたたかせ、真帆の服の裾をぎゅっと掴んだ。「……お喧嘩、しない?」「しないよ。大丈夫。そこでブランコ見ててね」 真帆は努めて柔らかい笑みを作り、七海の頭を軽く撫でた。七海は何度もうなずき、ゆっくりと公園の中央にある青いベンチへ向かって歩いて行った。 真帆は立ち上がり、公園の入口付近、アジサイの生け垣の脇に立つ女性――水城沙耶へと向き直った。 沙耶は抱えていたリボン付きの小箱を、胸元で硬く抱きしめたまま佇んでいた。薄いカーディガンの裾が、風に揺れて膝にまとわりついている。「……篠宮さん」 沙耶が静かに口を開いた。その声は掠れており、濡れた瞳で真帆の顔をじっと見つめていた。「先ほどの言葉……本当なんですか? あなたから届いた酷いメッセージは、あなたが送ったものではないというのは……」「本当です」 真帆は沙耶の目をまっすぐに見つめ返した。逃げも誤魔化しも許さないという強い意思を込めて、一歩距離を詰める。「あの画像がどこから出てきたのか、私には分かりません。でも、私が送ったSMSとは違います。あとで、そちらに残っている画面を見せてもらえませんか」 沙耶の唇が、乾いた音を立てて小さく開いた。 真帆の言葉を疑うというより、その事実の重さに耐えかねて思考が停止しているようだった。「それに、私の方には、あなたの名前で『母親失格』と届きました。昨日、電話で聞い
真帆は眩暈を覚えた。 なぜ、悠人はそんな真似をするのか。二人を遠ざけるのではなく、わざわざ真帆の行動圏の中に沙耶を呼び出し、鉢合わせさせようとするのか。 沙耶は泣き出しそうな顔で、胸元の小箱をぎゅっと抱きしめた。「篠宮さん……あなたこそ、どうしてそんなに怒るんですか? あなたから『二度と姿を見せるな』ってメッセージが届いたから、私はもう会わないつもりだったのに……悠人さんは『真帆も分かってくれているから来ていい』って……」「私からメッセージ……?」 真帆は沙耶の言葉を反芻した。 先日、沙耶から届いたスクリーンショット。真帆の名前の横にあった『二度と私たちの前に姿を見せないでください』という文面。「あれは……私じゃないわ!」 真帆は叫んだ。「七海に近づかないでとは、私も送りました。でも、あの画像の文章は私が書いたものじゃない!」◇ 沙耶の顔から、一瞬で血の気が引いた。 彼女の唇が、小さく震える。「……え……?」「私のアカウントの偽物か、誰かが勝手に私の携帯を使って、あなたに送ったのよ! 私だって、あなたから『母親失格』なんてメッセージが届いて驚いたわ!」「私……そんなメッセージ、送っていません……!」 沙耶が必死に頭を振った。「私は何も送っていません! あなたから拒絶されて、悲しくて、でも悠人さんに『会っておいで』と言われたから……ここに来ただけです!」 食い違う言葉。 互いに「相手から酷い言葉が届いた」と言い、互いに「自分は送っていない」と言っている。 真帆と沙耶。 二人の女性の間に横たわる、巨大な悪意の壁。 悠人は、二人に何を話してきたのか。真帆は沙耶の顔を見た。あの男を問い詰めても、この食い違いまでまた自分の勘違
七海が声を漏らした。 真帆の手を振り払い、七海が嬉しそうに一歩を踏み出そうとした。「沙耶マ――」「だめ!」 真帆は咄嗟に七海の腕を強く掴み引き寄せた。◇「痛っ……ママ……?」 七海が驚いた顔で真帆を見上げた。 真帆は七海を自分の背中に隠すように抱え込み、胸を激しく上下させた。周囲の保護者数人が、真帆の鋭い声に驚いてこちらを振り返る。 真帆は周囲の視線など構っていられなかった。 沙耶が、抱えていた小箱を胸元にきつく抱え直し、一歩前へ踏み出してきた。「七海ちゃん……」 沙耶の声はかすれていた。 真帆は七海の手を掴んだまま、校門を飛び出し、沙耶との間に立ちふさがった。「何をしているんですか、あなたは!」 真帆の声が、怒りで震えた。「どうして学校にまで来るんですか! ここがどこだか分かっているんですか!?」 沙耶は真帆の激しい勢いに少し身を引いたが、逃げようとはしなかった。彼女の瞳には、焦りや恥入る色ではなく、困惑と切なさが混ざり合っていた。「私……七海ちゃんに、これを渡したくて……」 沙耶は抱えていた小箱を真帆へ差し出そうとした。リボンの端に、小さなカードが添えられている。『七海ちゃんへ すこし早いけど、お誕生日おめでとう』と、丸みのある筆跡で書かれていた。「要りません!」 真帆は沙耶の手を素手で押し返した。「勝手にそんなものを渡さないでください! あなたは保護者でも何でもないでしょう!? これ以上、うちの子に近づかないでって、何度も言ったはずです!」「篠宮さん、落ち着いてください……」「落ち着けるわけないでしょう! 学校の前で待ち伏せるなんて、ストーカーと同じですよ! 警察を呼びますよ!」 周囲の保護者たちが、ざわつき始めた。 異様な雰囲気を察した数人の母親が、遠巻きにこちらを伺って
体育館から流れてくるピアノの音と、運動場でボールが弾む乾いた音が、廊下の窓越しに重なって聞こえていた。 六月終わりの授業参観。廊下に並べられたパイプ椅子の上には、色とりどりの折りたたみ傘や保護者用のスリッパ袋が整然と置かれている。壁には画用紙いっぱいに描かれた「わたしのアジサイ」の絵が飾られ、色鮮やかな水彩のグラデーションが通路を彩っていた。 真帆は廊下の最後列に立ち、教室内へ視線を送っていた。 一番窓際の、前から三番目の席。 七海がちいさな背中を丸め、教科書を両手でしっかり立てて音読していた。時折、自分の番が終わると、誇らしげに振り返って真帆を探す。真帆が小さく頷いて見せると、七海は満足そうに口元を緩め、すぐに前を向いた。 普通の、どこにでもある小学二年生の参観日。 けれど、真帆の背中には、朝から冷たい汗が張り付いたままだった。 昨日の電話。 沙耶から届いた「母親失格」というメッセージに対し、耐えかねて電話をかけた真帆へ、沙耶が返した一言。『私、そんなメッセージ……送っていません』 困惑と傷つきの混ざった沙耶の声が、今も真帆の耳の奥にこびりついて離れない。 悠人は「会社で外せない会議がある」と言って、今日の参観を欠席した。今朝も「写真、撮れたら送ってね」と爽やかに真帆の肩を抱き、いつものように出社していった。 あの男は、何を考えているのか。 二人とも、送っていないと言っている。沙耶が嘘をついているのか。それとも、誰かが間にいるのか。悠人の顔が浮かぶたび、真帆は昨日の電話を思い返した。まだ、声で否定し合っただけだった。 真帆は組んだ両手の指をきつく締め上げた。指先が白く鬱血する。 チャイムが鳴った。「はい、今日の授業はこれで終わります。おうちの人と気をつけて帰ってくださいね」 担任の男性教師が声をかけると、子どもたちが一斉に椅子を引く音があたりに響いた。◇ 児童たちがランドセルを背負い、保護者と一緒に教室から出てくる。 真帆は七海の黄色い帽子を受け取り、頭の上にそっと載せてやった。